大分県臼杵市では、毎年7月
臼杵祇園まつり
が開催されます。
毎年「山車」などに注目が行きますが、
今回は「御神幸」に注目して、動画を作成しました。
[st_af id=”54997″]
臼杵祇園まつりについて
臼杵祇園まつりは、稲葉藩第4代藩主・信通公が、寛永20年(西暦1643年)に現在の海添地区に御旅所(神輿を一時的に置く場所)を建て、神輿1基と鳥毛槍50本を寄付しました。
そして、
御神幸(ごしんこう:神様の魂が宿っているとして神社などに祀まつる神聖な物体を、お祭りの時に神社から他の場所へ移すこと)をおこなったのが、はじまりと伝えられています。
臼杵祇園まつりが、毎年行われるようになったのは、
承応元年(西暦1652年)からで、旧暦の6月7日~15日と定められていました。
これが戦後に新暦の7月17日~23日と改められました。
近年では、
「渡御 (おわたり)」(八坂神社から海添のお旅所まで)と「還御(おかえり)」(お旅所から八坂神社まで)を土日にあて、17日が含まれる1週間と定めています。
臼杵祇園まつり:御神幸(行列)
[st_af id=”61146″]
御神幸の各名称と意味合い
お槍(鳥毛槍)振り
50本の鳥毛槍は、関ヶ原の戦いの直前に行われた、群上合戦の戦利品と伝えられています。
槍を片手で操りながら歩く独特の動きは、他の地域では途絶えてしまった江戸時代以前の日本人の歩き方(ナンバ歩き)が忠実に再現されており、日本国内でも非常に貴重なものとして注目されています。
このナンバ歩きを用いた祭りは現在日本に2ヶ所(もう1ヶ所は奈良県の水分(みくまり)神社の祭り)しか存在していないと言われています。
猿田彦(さるたひこ)
赤い顔・高い鼻のお面ときらびやかな装束を身に着けた猿田彦は、道中の安全を守り魔物を祓う神様です。神話には天孫降臨の際、ニニギノミコトをお迎えし、ご案内した光り輝く神として記されています。
古来、ご神幸の行列には、この神のご神徳をいただくため、行列の先頭に登場します。
御吹抜(おんふきぬき)
城10本・赤10本の吹抜(何枚かの細長い布を輪に取り付け、長い竿の先端につけて立て、風になびかせたもの)です。
武家の合戦の時に軍旗(戦場で主将の所在を示す旗)の一種として用いられました。
瓢箪鉾(ひょうたんぼこ)
瓢箪の飾りを乗せた飾り山車(人形や花などを飾り付け、祭りの時に引いて歩く屋台)です。
瓢箪は千成(せんなり)とも言い、1本の木にたくさんの実をつけることから、福徳成功(財産や幸せに恵まれることを願う)や子孫繁栄(子や孫が豊かに栄えること)の意味を持つと言われます。
魔儺太鼓(まなんだいこ)
行列の進行に合わせて、ドーン……ドーンと太鼓の音が響きます。その音の
持つ不思議な力によって魔物を祓い、神輿のとおる道中を清めます。
瓢箪冠(ひょうたんかんむり)
ご神幸の露払い(行列などの先導をすること)として、寛文8年(西暦1668年)に初めて登場しました。
諏訪地区の日高家の先祖が、祭り当日に飛び入りで瓢箪をかぶり、ほら貝を吹いて行列に加わったことで行列が良く進んだことから、慣例となりました。
現在まで、日高家の代々のご奉仕が続いています。
金幣(きんぺい)
神様の魂のこもる貴重な宝です。和紙を何重にも張り重ね、 漆で固めたものに金箔を貼って作られています。行列を迎える人々に招福除災(福を呼んで災いを遠ざける)の光をもたらします。
御額(おんがく)
神様の名前を表し、その恩恵を称えるために、お旅所に掲げられる書き物です。
四神鉾(ししんぼこ)
青龍・朱雀・白虎・玄武という天地の四方を守護する四神の姿をかたどった鉾(両刃の剣に柄を付けた武器)です。
それぞれが青・赤・白・黒の色と春・夏・秋・冬の季節を示し、東・西・南・北を守護する力を持つと言われています。
小鉾・ 祭鉾・松鉾・玉鉾(こぼこ・まつりぼこ・まつぼこ・たまぼこ)
夏祭りのときだけにしか見ることのできない神様の宝です。
行列の道中を清め、見る人に延命長寿(寿命を長く延ばすこと)や病魔退散(病気を遠ざける)の力を授けます。
神馬(しんめ)
神様にお仕えする馬です。馬は聴覚が鋭いことから、願い事をよく聞き、それを神様に伝えてくれると言われます。
巫女(みこ)
祭りの期間中は、毎晩8時頃からお旅所にて、浦安の舞を踊ります。
この舞は昭和15年に作られ、浦安とは心が安らかという意味であり、平和を祈る舞です。
真榊(まさかき)
5色の絹を織り、左は鏡と玉を、右は剣をかけて一対とします。
御太刀・御弓・長矛(おんたち・おんゆみ・ながぼこ)
神輿の前につき、3種類の武器の力で魔物や災厄を祓い除きます。
神輿(みこし)
3基の神輿がご神幸に参加します。祇園まつりでは、八坂神社の主な神様である三体のご神体(神様の魂が宿っているとして神社などに祀る神聖な物体)が祀られています。
第一神輿は、
健速須佐之男尊(たけはやすさのおのみこと)を祀り、寛永20年(西暦1643年)に稲葉4代藩主・信通公が寄付しました。
第二神輿は、
大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀り、延宝3年(西暦1675年)に稲葉5代藩
主景通公が寄付しました。
第三神輿は、
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)を祀り、正保4年(西暦1647年)に信通公が寄付しました。
[st-mybox title=”神輿の掛け声について” fontawesome=”fa-check-circle” color=”#FFD54F” bordercolor=”#FFD54F” bgcolor=”#FFFDE7″ borderwidth=”2″ borderradius=”5″ titleweight=”bold” fontsize=”” myclass=”st-mybox-class” margin=”25px 0 25px 0″]
渡御(おわたり)
神輿の片方が「ミョウサヤ」と突き上げると、もう片方が「チ
ョウサヤ」と突き返します。漢字で書くと「明清、長清」となり、「明るく清
く、長く清く」という祭りに対する心意気を示します。
還御(おかえり)
「ミョウネンナ」「チョウネンナ」「アーナ・ナゴリオーシヤナ」となります。
漢字で書くと「明年な、長年な、あーな、名残惜しやな」となり、
「(次に神輿を担ぐのは)明年(来年)とは長いなぁ。あー名残惜しいことだ
なぁ」というしばしの別れを惜しむ気持ちを表しています。
[/st-mybox]
山車(やま)
臼杵の市街中心部は八つの町から形成され、合わせて「町八町」と呼びます。
その八町より毎年二町が当番制で山車を担当し、お囃子を奏でながら祭りに参加します。
各町より歌舞伎などを行う舞台として山車を作り、それを曳出したのが始まりとなって、元禄10年(西暦1697年)から、祭りに練物(祭りなどの時に、町中を練り歩く行列や山車のこと)などが加わりました。
ご神幸についていくためには移動ができる舞台が必要となり、そのために山車を作ったと考えられます。
その後、踊りが始まったのは 正徳3年(西暦1713年)のことでした。
このようにして踊りが披露されたことから「 踊山車(おどりやま)」とも言われるようになり、現在も続いている二町当番制が始まりました。
山車には、
[st-square-checkbox bgcolor=”” bordercolor=”” fontweight=”” borderwidth=”3″]
- 連長(リーダー)1人、
- 采振り8人
- 鉦(かね)1人
- 太鼓1人
- 締め太鼓1人
- 楽器の交替要員各1人
[/st-square-checkbox]
の計13~15人が乗ります。
連長は拍子木(拍子を取るための木の道具)、采振りは采(戦場で軍勢を率いる際に用いた道具)を持ちます。
このとき演奏されるお囃子は、八町それぞれ少しずつ異なったものとなっていて、町の特色を出した苦労のあとが伺えます。
コンコン チキチ コンチキチ コンコン チキチ コンチキチ
チキチン チキチン チキチキチン
[st-kaiwa3]臼杵祇園まつりは、平成20年3月28日、大分県指定無形民俗文化財に指定されました。[/st-kaiwa3]